緋箱双紙 弐拾陸『金』紗由

満点の星空の寒い夜。
高い空に向かって甲高い声が響く。
南の山の森の奥で、鹿たちが鳴いている。

人が入らぬ夜の森を丸々と太ったタヌキがひょこひょこ歩く。
ふっさりとした尾を靡かせて、餌を求める狐が走る。
ネズミもカラスも土の上を踊っている。

わたしは守られた街の中で、
金色の角を持った鹿の夢を見ている。

それは遠い記憶だったのか、夢幻だったのか。
もう定かではないけれど、
わたしはその美しい鹿に伝えられた言葉をずっと胸に抱いている。


幼い日の記憶をたどる。
その日は街の猟師たちが山に巻狩りにいく日だった。
鉄砲撃ちの父に付き合いわたしも連れて行かれた。
この西の街の猟師の子供達は、8歳になるとみんな犬と共に勢子の役をやらされる。
山に潜む獣を追いかけ、鉄砲撃ちの元まで導く役だ。

その日もわたしを含めて7-8名の子供達が勢子として駆り出されていた。
猟師の子供は、男女の区別なく、好むと好まざるとに関わらず、
猟師の仕事を手伝わなければならない。
わたしも含めて子供達は皆、楽しくも嬉しくもなさそうな顔をして
鉄砲撃ちの親の後をついて山を登っていた。

夏はとうに過ぎて、もう冬も近く、落ち葉が土を覆い隠して地面がふわふわとしていた。
わたしはもう何度も勢子をやっていたせいで、この山の事は分かっていた気になっていた。
だから油断したのだろうと思う。
夢中で獣を追ううちに、ふとした瞬間に足を滑らせ体の重心がどこかに行ってしまい、
そのままわたしの体は山の斜面を転がり落ちた。


目をさますと、わたしは何処だか分からない場所にいた。
南の山の何処かだ、という事は分かるが、
自分が一体どの辺りにいるのか皆目見当がつかない。
いつまで気を失っていたのか、暗い森の木々の隙間から見える空はもう赤みがかっている。
山の中は静まり返っている。もう、皆街に戻ってしまったのだろうか。

体を少し動かしてみる。
左足に強い痛みを感じる。骨が折れてしまったのかもしれない。

ふと、近くに何かの気配を感じた。
さく、さくと、小さな足音。落ち葉を軽やかに踏む音がして、
木の陰からぬっと目の前に現れたのは金色の角を持った大きな雄鹿だった。

わたしは身を固めた。
鹿は人を見て攻撃してくる動物ではないが、時には気の荒いものもいる。
どんな動物であれ、丸腰の人間より弱い動物はいない。
あの角で襲いかかられたら、ひとたまりもないだろう。

その角は金色に輝いていた。
木々の隙間からさす夕日が白い鹿の角を染めあげたのかと思っていたが、
どうやら違うらしい。
角自体が、内側から金色に発光しているようだった。

鹿はしばらくじっとわたしの姿を見つめていたが、
やがて近くにあった大きな石をくわえ、わたしの方に近づいてきた。

わたしは動かない足を引きづりながら腕の力だけで後ずさる。
今まで勢子として何度も追い立てていた鹿という生き物を
初めて心底恐ろしいと感じた。
鹿たちも追い立てられる時に同じ恐怖を感じていたのだろうか。
死にたくないと願いながら、震える体を奮い立たせて走っていたのだろうか。

雄鹿がわたしのすぐ横に突然くわえていた石を落とした。
何かがバチンという音を立てて盛大に跳ね上がる。

罠だ。

金色の角を持つその雄鹿は、石を使い掛けられた罠を外した。

その事実に愕然としながらわたしはもう一度鹿の瞳を見た。
鹿も、わたしの方を見ていた。

「人の子か」

鹿はわたしに向かって語りかけた。
それは、口から発せられた言葉ではなく、何か頭の中に響くような言葉だった。

「あなたは」

わたしが返事をすると、鹿は驚いたように瞳を丸くした。

「驚いた。人は黄泉と現世のあわいの子供は山に入れないと思っていたが。
 お前は歳を重ねてもあわいの言葉が分かるらしい」

「あわい?」

「黄泉では魂は現世の形を離れる。だから、形をのりこえて意思の疎通ができる。
 現世は常に黄泉と通じている。心を向ければ世界はあわいとなり、
 全ての生命とは意思の疎通ができるものだが、最近はなかなか難しい。」

鹿はせつなそうにため息をついた。

「わたしを殺さないの?」

「人の子をひとり殺して何になろう。私たちは肉食ではない。」

「わたしは猟師の子だよ。貴方の仲間を沢山殺した。」

「わたしたちも沢山の、これから育つ草たちの命を食べてきた。
植物は動かず血を流さないから残酷ではないと思うのならば、
それは物事の表面しか見えていないということだ。」

「貴方は罠を外すことができるのね。貴方のようなことができる鹿がいるなんて知らなかった。」

「ある日突然、わたしにはこの金色の角が生えた。
 その時からわたしは突然、周りの全ての事が明らかになった。
 人の動きを想像し、食べるものを確保し、罠を外す。
 そう言ったことが出来るようになった。
 けれども、今、それが出来るのは私だけだ。
 私だけにできても、大きな種の運命は変えられない。
 そして、この角もいつかはこの身からは落ちてしまうし、
私自身の魂も黄泉に帰ってしまう。」

「でも、黄泉に還った貴方に変わって、また別の誰かに金色の角が宿るかもしれない」

「そうかもしれない。けれども、それはまだ長い流れの先の話だ。」

鹿が、突然鋭く鳴いた。
山に響くかん高い声。
やがて、ざわざわと遠くから大人たちの声が聞こえた。
山の土を踏みしめる音が近づいて来る。

「人の子よ。話ができて嬉しかった。
 共に生きることが出来なくとも、言葉を交わせたのなら希望がある。」

鹿はそれだけを言い残して山の中に去っていった。


わたしは鹿の鳴き声を聞きつけてやってきた大人たちに助けられた。
わたしは金色の角を持った鹿の話を、誰にもしなかった。

わたしは街の中で金色の鹿の夢をみる。
夢の中で、金色の鹿の角がわたしの胸を貫いた。
キラキラとした金色の輝きがわたしの身体に染み渡っていく。

ふと、夜の闇の中でわたしは目を覚ます。
胸に当てていた自分の手を闇の中で見つめてみると
左手の小指の爪が金色に輝いていた。