緋箱物語 / 山本紗由

これは、遥かなる遠い昔の、何処かの御伽噺です。

とある山の麓の小さな村に
美しいイオという名の娘がおりました。
イオの長い黒髪は、濡れた鴉の羽のようにしっとりと輝き、
白い肌はまだ誰にも踏み荒らされていない初雪のよう。
にっこりと笑うくちびるは
夾竹桃の花のような鮮やかさでした。

そして、何よりも素晴らしいのはその歌声で、
イオの歌声を聞いた村の人々は、
夏のどんなつらい日差しも、
ぐっと堪えることが出来ましたし、
冬のどんな厳しい寒さも、
吹き飛ばすことが出来ました。

イオは歌うことが大好きで、
河原で洗濯をするときも、畑に種を蒔くときも、
夜明けにさえずる小鳥のように、
朗らかに歌うのでした。

村中の人々がイオの歌声をとても愛しており、
イオのことをとても大切に思っていました。

その村から少し外れた河原の近くに、
カロンという皮なめしの男が住んでいました。
カロンは村の人々と
あまり仲が良くありませんでしたが、
村の人々と同じようにイオの歌声を愛していました。

イオの澄んだ歌声は風にのって、
村から離れたカロンのあばら家まで
届いていたのです。

あれはいつの頃だったでしょう。
月明かりの美しい、穏やかな風が吹く春の夜に、
カロンははじめてイオの歌声を耳にしました。
なんという美しい歌声だろう。
歌声を追いかけて
ふらふらと月明かりの下に彷徨い出たカロンは
村の大きな桜の木の下で
歌うイオの姿を目にしたのです。
月明かりに照らされ歌うイオは
この世のものとは思えぬほどに美しく、
カロンは何か尊いものを拝んでいるような
不思議な陶酔感に包まれ、
この歌声を永遠に自分のものに出来るのならば、
この世界の何を失っても構わない
とすら思ったのでした。

その日から、カロンはその夜のことが
忘れられなくなりました。
イオの歌声が、
月明かりの下で歌うイオの姿が
忘れられなくなりました。
イオの歌声は村の方から吹いて来る風にのって
カロンの元にやって来るのですから、
風のふかない日は聴くことが出来ません。

村のやつらは嫌いだけれど、
あの娘の歌声はすばらしい。
あの娘の歌声を聴けない日は、
なんだかおれは頭がくるいそうになるのだ。

カロンはもう一日だって欠かさずに
イオの歌声が聴きたくてたまらないのでした。
風の吹かない日にもイオの歌声が聴ける村の人たちが
憎らしくて仕方がないのでした。
時折、こっそりと村に覗きに行ったりもしましたが、
村の人々の中で幸せそうに歌うイオを見ることは、
カロンにとって何故か辛いことでした。
村の人達と楽しそうにしているイオの姿を見ると、
カロンは心臓を凍った手で
ぎゅっと掴まれた心持ちになるのでした。

****

村に何度目かの寒い冬がやってきました。
カロンは今年ほど
寒い冬が待ち遠しいことはありませんでした。

寒さとともに木々の葉が落ち、
植物たちが眠り始めると、
空からぱらりぱらりと雪が舞い降りてきて、
山は真っ白な雪化粧をいたします。
村の人々は誰も知りませんでしたが、
植物たちが眠り、
動物たちが雪の上に足跡を残すようになると、
山の奥の小さな洞窟に、
一人の魔術師がやって来るのです。

魔術師は不思議な呪文を色々知っていたし、
不思議な魔法の道具を沢山作ることができました。
カロンは何年か前の雪の山の中で、
倒れているその魔術師を助けたのです。
魔術師はとても感謝して、
カロンに魔法のお話を沢山してくれていたのでした。

魔術師の不思議な道具の中に、
緋色の箱というものがありました。
この箱には、
かたちがあるものも、ないものも、
なんでも入れることができました。

大切な『もの』はもちろん、
きおく、おと、かおり、はだざわりまで。

箱の中に入れられたものは、
箱の中で永遠の存在となります。
そして、箱の鍵を持つものが、
誰もいない部屋の中でそっとその箱を開ければ、
いつでも、その中に入れたものを
楽しむことができるというのでした。

カロンは魔術師に頼みました。

あの娘の歌声を箱の中に閉じ込めたい。
おれは、あの娘の歌声が
好きで好きでたまらないのだ。
あの娘の歌声が聴けない時間は
気が狂いそうになるし、
あの娘がおれ以外の人間に
歌っていることを考えるだけで
どうにも胸がたまらなくなるのだ。
あの娘の歌声をおれだけのものにしたい。
あの娘がずっとずっとおれに歌ってくれるならば、
それ以外のどんなものを失ってもかまわない。

魔術師は言いました。

この緋色の箱に入れたものは
箱の中で永遠の命を得ることが出来る。
けれども、それは、
この世界のことわりから外れることだ。
その娘の歌声を
箱に閉じ込めることは勿論可能だけれども、
この世界に生きる、お前を含む全ての人間は
この箱の中に入れたものに関する記憶を
失ってしまう。
その、イオという娘も
二度と歌おうとはしないだろう。
お前も、娘の歌声は手に入るだろうが、
その娘のことを恐らくは忘れてしまう。
それでも良いかね。

カロンは、
例え自分がイオの記憶を失ってしまったとしても、
イオの歌声さえ永遠に聴けるのならば、
それで自分は幸せに違いないと思いました。
おれは、
彼女の歌声だけを純粋に愛しているのだ。
たとえ彼女の記憶があろうとなかろうと、
その歌声の価値が揺らぐことは、
決してあり得ないのだ。

魔術師はイオの歌声を、緋色の箱に閉じ込めました。

カロンはイオの事を忘れました。
彼女と出会った桜の木の下の夜のことを忘れました。
イオの歌っている時の眼差しや、
村人たちに笑いかける微笑みを忘れました。

村中の人々も、
イオの素晴らしい歌声を忘れました。
彼女の歌声が
どれほど自分たちを力づけてくれていたのかを
忘れました。

そしてイオも、歌うことを忘れました。

カロンは自分の家に緋色の箱を持ち帰り、
高鳴る胸を押さえつつ、そっと鍵を開けてみました。
オルゴール箱のような蓋をそっと持ち上げると、
箱の中からは
とても美しい少女の歌声が聞こえてきました。

なんという美しい歌声だろう。
カロンは道端に咲く
美しい花を眺めるような気持ちで、
しばらくその歌声を楽しんだ後、
そっとその箱の蓋を閉じました。

かつては永遠を望んだ歌声も、
イオの記憶を失ったカロンには
ただの美しい歌声に過ぎず、
それ以来、カロンは二度と
その箱の蓋を開けることはありませんでした。